1駅で日本史 飛鳥時代②・天智天皇の時代
この記事は、日本史に興味を持っている社会人に向けて書いています。
「1駅を移動する間(約5分間)にざっくり日本史を楽しめる記事」を目指しています。
レベルは、初心者向けの中学高校の日本史、そして何処から見ても1話完結で見れる記事を目指しています!
本記事では「飛鳥時代・天智天皇の時代」を見ていきましょう。
乙巳の変から大化改新
7世紀、33代・推古天皇と共に活躍した厩戸王(聖徳太子)と蘇我馬子により、
冠位十二階や憲法十七条が制定されました。

622年に厩戸王、626年には蘇我馬子、628年に推古天皇が亡くなりました。
そして、蘇我馬子の息子である蘇我蝦夷や更にその息子、蘇我入鹿など、
蘇我氏の影響力がますます強くなっていきます。
天皇は、34代・舒明天皇が即位しますが、舒明天皇が亡くなると、皇后が天皇になります。
それが、35代・皇極天皇です。

蘇我入鹿によって、厩戸王の子、山背大兄王が643年に自殺に追い込まれます。

そんな状況のなか、皇極天皇の子、中大兄皇子は遣唐使であった留学生たちから、
隋や唐の制度や文化などを学んでいきます。
そして、天皇家をコントロールしようとする蘇我氏に危機感をもち、
中大兄皇子が、学友である中臣鎌足と一緒に、645年に蘇我入鹿を暗殺します。
これを乙巳の変といいます。

中大兄皇子は天皇を中心とした政治改革を行います。
この改革を「大化改新」といいます。
改新の詔
天皇を中心とした新しい政治体制と元号の誕生
乙巳の変ののち、中大兄皇子は新しい天皇として、
皇極天皇の弟、軽皇子を、36代・孝徳天皇をたてます。

また天皇の宮も、飛鳥宮から、今の大阪城の近くの難波宮に移します。
そして新政権が勃発しました。
- 天皇:36代・孝徳天皇
- 皇太子:中大兄皇子
- 左大臣(最高機関):阿部内麻呂
- 右大臣(最高機関):蘇我倉山田石川麻呂
- 内臣(政治顧問的役割):中臣鎌足
- 国博士(政治顧問的役割):僧旻、高向玄理
また、唐の国などで使われていた元号という仕組みを利用し、645年に元号が誕生します。
最初の元号が、ずばり「大化」です。
この元号が、今の「令和」にまで脈々と引き継がれていきます。
改新の詔
そして、646年、政府はこれから行っていく改革の方針を発表します。
それが「改新の詔」です。
公地公民
今まで「豪族が管理していた土地や人を国が管理しますよ。」という制度です。
部曲といった豪族の私有民や、田荘といった私有地。
また、子代や名代といった大王家の直轄の民や私有地である屯倉といった制度を廃止し、
代わりに「食封」という給料のようなものを渡します。
土地から集めた税みたいなものです。
民と土地は国の管轄になるが、そこから納められる税はキチンと豪族に渡りますということかと思われます。

地方制度
地方制度とは、国や地方の行政や区画をしっかり定義していこうといったものだと思われます。
おそらく、それまでの日本では首都、国、地方といったものがそれぞれの地方を収める豪族に委ねられて、
あやふやな状態がある程度多かったのではないでしょうか。

班田収授法
戸籍を作った上で計帳(税金を集めるために記録しておくもの)を作ります。
その上で、ある一定の年齢になれば、国から田を与え、死亡したら国に返すといった制度です。
国から田を与えることを班田。
死亡したら国へと田を返すことを収受ということから、班田収授法です。
租税制度
それまでも大王や豪族が税を収集していましたが、
しっかりとした統一的な税収集の制度を作るといった制度です。
律令制度へと続く改新の詔
この改新の詔は、646年に一斉にスタート!ではなく、方針を出してじょじょに改革しようとしたと言われております。
また、改新の詔は「720年に完成された日本書紀」に掲載されていた内容であり、
昭和後期に藤原京跡で見つかった、699年当時の日付が書かれた木簡には、
地方の呼び名が「評」と書かれていました。
しかし、646年の改新の詔では、その後の地方の呼び名である「群」が書かれていることから、
後で書き替えられたのではないか?という疑惑もあります。
このようなことから、実際にどのくらい実施されたのかは定かではありませんが、
天皇を中心とした中央政権制度を整備しこうと、
その後の律令制度へと緩やかにスタートしたのではないでしょうか?
白村江の戦い
天皇チェンジ! 35代・皇極天皇と同一人物の37代・斉明天皇
中大兄皇子と36代・孝徳天皇は次第に仲が悪くなっていきます。

難波から飛鳥へ都を戻そうとした中大兄皇子と、難波に残りたい孝徳天皇の間で意見が分かれました。
中大兄皇子たちは、母親である皇極前天皇や身内を連れて653年に飛鳥に移ります。
その翌年654年、孝徳天皇は病気のため?崩御します。
またその後、孝徳天皇の息子であった皇子・有間皇子も謀反の疑いをかけられ、658年に死刑となります。
時は少し戻り、655年に皇極前天皇が再び天皇になります。
37代・斉明天皇の誕生です。35代・皇極天皇と同一人物で、中大兄皇子の母親です。
このように、同一人物が再び天皇に即位することを「重祚」といいます。

蝦夷征伐
この頃、中央政権は東北地方へも手を伸ばしていきます。
当時の東北地方は蝦夷と呼ばれており、
斉明天皇は658年に阿倍比羅夫という将軍が水軍を用いて日本海側から遠征します。
蝦夷への遠征は660年まで続きます。

日本書紀には、阿倍比羅夫は生きたヒグマやヒグマの皮を献上したと書かれております。
白村江の戦い
飛鳥時代、日本と百済は友好な関係でした。
その百済が、660年に、唐と新羅によって滅ぼされる事件が勃発します。
百済は日本に助けを求めます。
中大兄皇子も、百済救済のため、阿倍比羅夫を含めた大軍を派遣します。
663年、唐・新羅連合軍と戦います。「白村江の戦い」です。
しかし、日本・百済軍は大敗してしまいます。

668年に高句麗は滅び、その後676年に新羅によって朝鮮半島は統一されてしまいます。
これを教訓に、日本に攻めてきたときのことを考え、664年に九州の防衛を強化します。
敵の襲来を知らせる烽、防衛のための兵隊である防人などを用意します。
38代・天智天皇の時代
38代・天智天皇の誕生
661年に37代・斉明天皇は崩御します。
乙巳の変から蝦夷征伐、そして白村江の戦いと動乱の時代を生きて、
皇極天皇、斉明天皇として活躍した人物でした。
考えてみれば、蘇我入鹿を目の前で殺され、
息子と弟の確執、そして蝦夷征伐や朝鮮半島、白村江での敗北など、
苦労が絶えない人生だったのかもしれません。
その後、天皇不在のまま中大兄皇子が政務を執ります。
このような天皇不在の状況で次に天皇になるであろう人物が政務を行うことを「称制」といいます。
中大兄皇子は667年に近江大津宮に遷都します。
万一、海に近い難波などが攻められた時の為とも言われています。
そして、668年に、中大兄皇子は天皇に即位します。
38代・天智天皇の誕生です。
近江令と庚午年籍
668年に天智天皇の依頼で、中臣鎌足が近江令を編纂したと伝えられています。
近江令とは、日本で最初に作られた法令集と言われてます。
近江令は現存していないため、その存在に関してはさまざまな意見があるようです。
670年、「庚午年籍」の作成が行われます。
日本全国の人々を把握するために、日本初の戸籍になります。
それ以前にも渡来人を把握する戸籍など、範囲を絞った戸籍は存在していたそうですが、
全国を対象としたのは初めてのようです。
とはいえ、こちらも現存していないため、どのくらい本当に実施されたかは不明のようですが、
全国の国民の氏や姓をしっかり把握管理しようという、中央集権体制の一貫した指針が見え隠れします。
律令国家へと続く道
中臣鎌足の逝去と藤原姓の誕生
669年に中臣鎌足が、狩りの最中に馬上から落ちて背中を強打しました。
天智天皇が見舞いに駆け付けると、中臣鎌足は「私は軍略で貢献する事が出来なかった」と語ったそうです。
白村江の戦いにて苦い思いをしたのは中臣鎌足も同じだったのかもしれません。
天智天皇も、もう長くはないことを悟っていたのかもしれません。
中臣鎌足に大織冠を授け、内大臣に任命します。
更に藤原の姓を授け、藤原鎌足となります。
ここに長く続いていく、藤原姓が誕生します。
その翌日に藤原鎌足(中臣鎌足)は56歳で逝去しました。
律令国家へと続く道
その後、病気がちになった天智天応は、672年に46歳で崩御します。
遣唐使から学んだ唐の国の律令国家、
そして天皇を中心とした中央政権の確立を目指した人生だったのかもしれません。
乙巳の変から白村江の戦いまでの道は、けして楽ではなかったでしょう。

律令国家への道は次の世代へと託されていきます。