1駅で日本史 古墳時代
この記事は、
日本史に触れてこなかったけど、興味を持っている社会人に向けて書いています。
「1駅を移動する間(約5分間)にざっくり日本史を楽しめる記事」を目指しています。
レベルは初心者向け、中学高校の日本史をテーマに扱います。
何処から見ても1話完結で見れる記事になっております。
それでは「古墳時代」について見ていきましょう!
ヤマト政権
4世紀ごろ、大和地方を中心に作られた政治連合をヤマト政権といいます。
この古墳時代の中心となる政権ですね。
古墳って何?
古墳って何でしょう?
古墳とは3世紀後半~7世紀ごろに渡って作られた、身分の高い人の為の大きなお墓のことです。
初期の古墳と副葬品
3世紀後半から西日本をを中心に「前方後円墳」が広がっていきます。

初期の前方後円墳は「竪穴式石室」と呼ばれ、遺体の入った木棺を円の上から入れて、
上から土で埋める形が取られていました。
この形では、例えば親族を同じ墓に入れることが不可能になります。

また、初期は司祭的な要素が強く、三角縁神獣鏡といった銅鏡などの副葬品がありました。
その他にも埴輪といったさまざまな形状の焼き物が並んでいました。
この時代の有名な古墳は、
卑弥呼の古墳ではないか?とも言われている、
奈良県、桜井市にある「箸墓古墳」があります。
中期の古墳と副葬品
5世紀ごろでは、前方後円墳は大型化していきます。
また、副葬品に馬具や武器といったものが副葬されるようになり、
武力が支配の中心であったことを伺うことが出来ます。
この時代の有名な古墳は、
大阪府、堺市にある、世界最大の大きさを持つ古墳、
仁徳天皇の古墳と伝わっている「大仙陵古墳」があります。
また、同じく大阪府、羽曳野市にある、
応神天皇の古墳と伝わっている「誉田御廟山古墳」などがあります。
後期の古墳と副葬品
6世紀ごろになると「横穴式石室」と呼ばれる、墓を入れるスペースを作り、
そこから追葬が可能になる形へと進化していきます。

前方後円墳だけではなく、有力農民などの、いわばプチセレブなども古墳に埋葬される形も現れます。
規模の小さな群集墳や、円墳なども目立つようになっていきます。
また、副葬品も土器などの日常品も見られるようになりました。
埴輪に関しても人型や動物型のものが増えていきました。
この時代の有名な古墳は、
奈良県明日香村にある「高松塚古墳」などがあります。
古墳時代における他国との関係
空白の4世紀
4世紀になると中国大陸も大変な時代を迎えます。
異国民の侵略などを迎えた動乱の時代になります。
不安定な時代になることで、
「日本でどういったことが起こったのか?」記載している文献が無くなります。
国内では、
まだ文字に残しておくという技術がない為、この時代は空白の時代となっているのです。
朝鮮半島では、高句麗という国が北部に領土を広げ、
南部には、百済や新羅、加耶という国が現れました。
百済や加耶は高句麗と争っており、倭の国も百済や加耶に加勢していたようです。
朝鮮半島に出兵して争い、西暦391年に倭の国と交戦したことが、
高句麗の「好太王碑」と言われる高さ約6mの碑文に記述されています。
この頃、百済や加耶との交流があり、さまざまな文化や技術が伝わりました。
5世紀には馬具が古墳に収められていることなどから、
馬に乗って戦う風習も、高句麗との戦いを通して伝わって来たと考えられています。
倭の五王とワカタケル大王
5世紀になり、中国に宋という王朝が誕生し、安定していきます。
すると「宋書・倭国伝」と言われる文献に、再び倭の国が登場していきます。
その中で、讃・珍・済・興・武と呼ばれる「倭の五王」が南朝の宋に、
朝貢していたことが書かれています。
この中で有名なのが「武」です。
武は、
後の時代に書かれた日本書紀や古事記に記述されている、21代・ 雄略天皇と同一人物ではないかと言われております。
雄略天皇は後につけた天皇名です。
雄略天皇の名前は、日本書紀や古事記に「大泊瀬幼武」(ワカタケル)などと書かれております。
このワカタケルと書かれた、当時の鉄刀や鉄検が発見されています。
まずは、明治時代に、熊本県、江田船山古墳から出土された鉄刀に
「獲□□□鹵大王」と書かれていることが分かりました。
その後、昭和50年代に、埼玉県稲荷山古墳で発見された鉄検に、
「獲加多支鹵大王」と書かれていることから、ワカタケルと読むことが分かりました。
この熊本や埼玉などの発見や記述されている内容から、
この当時のヤマト政権が、九州から関東までを支配下に置いていたことが分かります。
またこの頃が文字が伝わって来た時期でもあります。
当て字のような漢字が使われていたのですね。
「夜露死苦」みたいな形ですね。
日本書紀に書かれている名前と読みが一致するなんて、凄い発見ですよね。
渡来人と文化の伝来
古墳時代には大陸や朝鮮半島から渡来人がさまざまな文化を伝えています。
「文字」である「漢字」が伝わっていきます。
初期は、獲加多支鹵大王などといった当て字が使われていたのですね。
「儒教」や「仏教」も伝わっていきます。
また、朝鮮半島から土器のパワーアップ版である、灰色で硬い「須恵器」が伝わります。
この頃に今に通ずる、さまざまな文化が伝わってきているのですね。
ヤマト政権の氏姓制度
5~6世紀になると、
ヤマト政権が大きくなったので、
しっかりとコントロールしていくため、
氏姓制度というシステムが出来上がっていきます。
血縁関係でグループを作る氏。
氏には、長である氏上と氏上を支える氏人で構成されています。
財政担当の蘇我氏、
軍事担当の物部氏や大伴氏などがいます。
このそれぞれの氏に対してランクをつけます。
このランクのことを姓といいます。
大和地方などのトップの豪族には臣(蘇我氏や葛城氏など)。
軍事や祭祀を扱うトップの豪族には連(大伴氏や物部氏など)。
臣や連の中でも筆頭の豪族に「大臣」や「大連」というランクがありました。
この2つの姓が大王の下にくるツートップになります。
地方の有力な豪族は君、
地方の一般的な豪族に値などがあります。
また、特定の職業で大王に奉仕する品部があります。
品部には以下のような姓がありました。
- 韓鍛冶部
鉄の生産を行う - 陶作部
朝鮮半島から伝わる須恵器の生産を行う - 錦織部
機織りを行う
読みにくいですよね…。
また豪族の私有地は田荘、その土地で暮らす民衆は部曲と言われました。
その他にも大王家の直轄領である屯倉や、直轄民の名代・子代が存在していました。
これらの大王家の直轄領を管理する姓として、国造があります。
また「ヤツコ(奴婢)」と呼ばれる奴隷もいました。
人々の生活
この時代では、豪族と民衆は、はっきりと分れた所で暮らしていたようです。
豪族は少し離れた所に、環濠や柵列に囲まれた居館で暮らしていました。
民衆は環濠などはなく、竪穴住居や平地住居、高床倉庫などが集まった集落で暮らしていたようです。
弥生時代では、環濠集落の中で暮らしていましたが、
豪族と民衆で分れ、民衆は環濠で囲まれていないことを除けば、弥生時代と同じような住居だったんですね。
5世紀ごろになると、朝鮮半島からの影響でカマドが使われるようになりました。
また、土器に関しては、弥生時代から伝わる赤褐色の「土師器」とともに、
朝鮮半島から、灰色で硬い「須恵器」が伝わりました。
これらを用いて暮らしていたようです。
服装に関しては、男性はズボンのような袴(これは馬に乗るためと言われています)、
女性はスカートのようなものを着ていたようです。
春の豊作を祝う「祈年の祭り」や、
秋の収穫を感謝する「新嘗の祭り」なども行われ、現在の「勤労感謝の日」につながる祭りなのです。
元々は秋の収穫を祝う祭りだったのですね。
文化の交流が活発になり、国の形が見えてきた古墳時代
本日は古墳時代を振り返ってみました。
他国からの文化が伝わり、また氏姓制度などを通して国の形が形成づけられた時代でもあるのですね。
今でも見ることが出来る沢山の古墳が作られました。
また、漢字も当て字ですが、この頃から見ることが出来ます。
文字が出現した時代でもあります。
こうして文字が残ることで、昔のことが分かるようになっていきます。
そう考えると文字の発明は偉大ですよね。
例えばプロジェクトのお仕事などでも、
めんどくさがらず、議事録を残したりする必要性も実感します。(汗)
時代は飛鳥時代へと流れていきます。
参考資料:
詳説日本史B 改訂版 [日B309] 文部科学省検定済教科書