1駅で日本史 飛鳥時代③・天武天皇と持統天皇
この記事は、日本史に興味を持っている社会人に向けて書いています。
「1駅を移動する間(約5分間)にざっくり日本史を楽しめる記事」を目指しています。
(最近、明らかにちょっと2~3駅分になっているような気がしますが…)
レベルは、初心者向けの中学高校の日本史、そして何処から見ても1話完結で見れる記事になっております!
本記事では「飛鳥時代・天武天皇と持統天皇」の時代を見ていきましょう。
38代・天智天皇の死、そして壬申の乱勃発
天皇中心の律令国家を目指した、中大兄皇子こと38代・天智天皇が672年に崩御します。
天智天皇は次期天皇に息子の「大友皇子」に即位させるつもりでした。
しかし、もう一人、天智天皇の弟である「大海人皇子」の間で対立が起こります。
そして672年、大きな戦乱が勃発します。
「壬申の乱」です。

天智天皇の政治に不満を抱いていた東国の豪族たちが大海人皇子につき、
大海人皇子が勝利します。
その結果、大友皇子は自害することになります。
大友皇子はこの間に39代・弘文天皇として書かれておりますが、
実際に即位したかどうかはわかりません。
その後、673年、大海人皇子は40代・天武天皇となり、
天皇の宮を近江大津宮から飛鳥浄御原宮へと移します。

天武天皇と持統天皇の政治
天皇中心の政治へ
壬申の乱によって、大友皇子についていた近江周辺の豪族たちを倒し、
40代・天武天皇の味方に付いた東国の豪族たちのもと、強大な権力を手にいれました。
天武天皇は皇族を中心とする皇親政治を樹立していきます。
それまでは「大王」と呼ばれていましたが、
この頃から「天皇」という称号が使われるようになったといわれています。
もうこれからは王ではなく神!
更に強い権力を持っているんだよ。ということが伝わりますね。
天皇中心の中央集権国家、律令国家へと動いていきます。
40代・天武天皇の政治
5世紀ごろ、ヤマト政権で生まれた氏姓制度がありました。
血縁につけられた氏とその氏の役割である姓を用いて組織をコントロールしていました。
蘇我氏や物部氏などが氏ですね。
そして、臣や連といった役割が姓でした。
684年に、天武天皇はこの姓を整理し8つにまとめました。
これを八色の姓といいます。
また「富本銭」という通貨の発行も行ったようですね。
昔は「和同開珎」が日本初の通貨と習っていましたが、
日本書紀に天武天皇が「お金の使用を命じた旨」が書かれている事、
富本銭が飛鳥池遺跡から沢山見つかっていることから、
「天武天皇の命じたお金が富本銭だったのではないか?」と考えられています。
そして今では富本銭が日本初の通貨として書かれているようですね。
しかし、流通は殆どしてなかったのではないか?と言われています。
また、皇后である後の持統天皇、鵜野讃良の病気の回復を願って薬師寺を建立に着手します。
薬師寺の完成は天武天皇の死後、698年に完成したと考えられています。

このようなことから、天武天皇と鵜野讃良はとても仲の良いオシドリ夫婦としても知られています。
飛鳥浄御原令などの律令や、
当時の中国の都城を模倣した藤原京の造営を計画しますが、
志半ば、686年に天武天皇は崩御します。
天武天皇の志を引き継いだ、41代・持統天皇の政治
天武天皇が崩御したのち、新しい天皇が即位せず、しばらく鵜野讃良が政治を担います。
このように天皇不在のまま、皇后などが政治をとることを、称制といいます。
その後、690年、天武天皇の皇后である鵜野讃良が41代・持統天皇となります。

持統天皇は天武天皇の事業を引き継いでいきます。
天武天皇が681年に作成を命じた飛鳥浄御原令を持統天皇が689年に完成させたと伝えられています。
また、690年に庚寅年藉という全国規模の戸籍を作成されます。
694年には、藤原京が完成し遷都します。
藤原京は碁盤目の目のような格子状の条坊制となっておりました。

それまでの天皇は一代ごとに宮を変えていましたが、
中国の都城を模した藤原京は、
本場の都城とは違う部分などもありましたが、何代でも切り盛り出来る都市となり、
41代・持統天皇、42代・文武天皇、43代・元明天皇と、3代にわたる天皇の宮となりました。
その後、697年に持統天皇の孫、42代・文武天皇に譲位します。
持統天皇の子である、草壁皇子は既になくなっており、
孫の文武天皇に皇位を譲ります。

文武天皇はまだ若かったため、
持統天皇はその後も上皇となって42代・文武天皇とともに政治を行っていきます。
大宝律令の完成から奈良時代へ
大宝律令の完成
文武天皇の時代の最大の功績は701年に制定された「大宝律令」になります。
大宝律令は、中臣鎌足(藤原鎌足)である藤原不比等、
皇族で天武天皇の息子の刑部親王により編纂されます。

飛鳥浄御原令など、それまでの「令」だけだったものから、
刑法にあたる「律」と、行政や税や労役などの規定を定めた「令」を兼ね備えた
「大宝律令」が誕生しました。
ここに律令国家が確立することになりました。
なお、701年は元号も「大宝」となりました。
それまでの元号は中国に遠慮して、外交的な文書には書かれなかったのですが、
この大宝からは日本の元号としてアピールしていくことになり、現在の令和まで続いていきます。
「日本」という国号も正式にこの頃から用いられるようになっていきます。
持統天皇と文武天皇の崩御から奈良時代へ
持統天皇は、翌年702年に病にかかり崩御しました。
天智天皇の子として生まれ、
天武天皇と共に律令国家を目指した持統天皇の時代は終わります。
持統天皇の快方を祈った天武天皇が発した薬師寺の建設、
そして天武天皇の政治を引き継いだ持統天皇。
天武天皇と持統天皇、苦楽を共にした夫婦は同じ古墳で眠ることになります。

その後、707年、文武天皇も25歳という若さで崩御しました。
持統天皇や藤原不比等たちに支えられながら、大宝律令を完成することになりました。
710年、藤原京から平城京への遷都が行われます。
厩戸王(聖徳太子)たちが大陸の法令から学び作成した「憲法十七条」や「冠位十二階」から始まった飛鳥時代はここに終わりを迎えます。
そして律令国家への歩みは、「大宝律令」の完成をもって、奈良時代へと活かされていきます。
参考資料: 詳説日本史B 改訂版 [日B309] 文部科学省検定済教科書