初心者が学ぶ日本史

1駅でまなぶ日本史 飛鳥時代①・蘇我氏の繁栄

1駅で日本史 飛鳥時代①・聖徳太子の時代まで

この記事は、日本史に興味を持っている社会人に向けて書いています。

「1駅を移動する間(約5分間)にざっくり日本史を楽しめる記事」を目指しています。

レベルは、初心者向けの中学高校の日本史、そして何処から見ても1話完結で見れる記事を目指しています!

本記事では飛鳥時代あすかじだい磐井いわいらんから蘇我そが氏の衰退までを紹介します。


それでは飛鳥時代あすかじだい①・蘇我そが氏の繁栄」を見ていきましょう!

飛鳥(あすか)時代って?

奈良県の明日香(あすか)村付近飛鳥あすかの地」皇居こうきょが置かれていた時代を飛鳥時代あすかじだいと呼びます。

時代は6世紀後半~7世紀後半もしくは8世紀前半
33代・推古天皇すいこてんのうの時代から藤原京ふじわらきょう遷都せんとした41代・持統天皇じとうてんのうの時代までが飛鳥時代あすかじだいになります。

本日は飛鳥時代あすかじだいの少し前、26代・継体天皇けいたいてんのうの頃から見ていきましょう。

飛鳥時代の幕開け、継体天皇の時代と磐井の乱

6世紀の朝鮮半島ちょうせんはんとう事情

日本史の書籍を見ると、飛鳥時代から天皇の名前が目立つようになっていきます。

もともと大王おおきみと呼ばれるヤマト政権の首長が、飛鳥時代の後半より天皇と呼ばれるようになっていきます。

日本書紀にほんしょき古事記こじきなどでは初代・神武天皇じんむてんのうが紀元前の時代に存在していたことになっています。

神武天皇は、もとをたどると、
イザナギノミコトイザナミノミコトなどの神の子孫ということになっておりますが、
神格化されているので実在していたかどうかは不明ですよね。

西暦507年になると、
15代・応神天皇おうじんてんのうとゆかりのある26代・継体天皇けいたいてんのうを、権力を持っている豪族の大伴金村おおとものかなむらが迎えいれます。

朝鮮半島では力を持った高句麗こうくりが、新羅しらぎ百済くだらを圧迫していきます。

この頃のヤマト政権百済くだらと友好関係を結んでおり、
大伴金村が、さらに友好を深めるため、
ヤマト政権が支配していた加耶かやの西側を百済にプレゼントします。

磐井いわいらん

新羅しらぎ百済くだらは敵対関係にあり、新羅の加耶への侵攻が進んでいました。

ヤマト政権はこれに対抗しようと、
近江毛野おうみのけなという将軍を、九州を経由して朝鮮半島へ向けて出兵させました。

しかし、新羅と手を結んだ、九州の豪族「筑紫国造つくしのくにのみやつこ磐井いわい」が妨害します。
西暦527年「磐井いわいらんの始まります。

翌年、西暦528年に物部麁鹿火もののべのあらかび大伴金村によって「磐井の乱」は鎮圧されます。

大伴金村は百済に加耶を渡してしまったことによる失策などが原因で勢力を失い、
物部氏の権力が強くなっていきました。

こうして飛鳥時代あすかじだいは幕を開けることになります。

蘇我氏と物部氏

6世紀の前半には、百済の聖明王せいめいおうから仏教がヤマト政権に伝えられました。

しかし、仏教を政治に取り入れようとする崇仏派すうぶつは蘇我稲目そがのいなめと、
仏教なんてヤマト政権には必要ないと主張する廃仏派はいぶつは物部尾輿もののべのおこしが対立することになります。

この対立を崇仏論争すうぶつろんそうといいます。

こうして、西暦587年蘇我馬子そがのうまこ(蘇我稲目の子)が物部守屋もののべのもりや物部尾輿の子)を滅ぼしました。
この一件を「丁未ていびらん」といいます。

またこの頃、大陸では西暦589年ずいの国が建国されました。

蘇我馬子すがのうまこ西暦592年に仲が悪くなっていた32代・崇峻天皇すしゅんてんのうを暗殺し、
初の女性の天皇である33代・推古天皇すいこてんのうを即位させました。

この頃は物部氏の力が弱まり、蘇我氏の権力が大きくなっていたのですね。

厩戸王(聖徳太子)の時代

推古天皇すいこてんのうは政治に関しては、甥の厩戸王うまやとおう(聖徳太子しょうとくたいし)や蘇我馬子そがのうまこに任せました。

厩戸王うまやとおうって聞いたことありますか?

昔の日本史の授業では聖徳太子しょうとくたいしで習っていた有名な人物です。

現在は厩戸王うまやとおうとして習っているようですね。

それでは、厩戸王たちの活躍を見ていきましょう。

冠位十二階かんいじゅうにかい

それまでは、生まれた家柄であるうじかばねによって仕事内容や身分が決められていました。

冠位十二階かんいじゅうにかい西暦603年に定められ、個人の能力に合わせて十二段階の順位付けを行うようになりました。

トップからそれぞれ、下記の12ランクにわけられました。

  • 大徳だいとく小徳しょうとく
  • 大仁だいにん小仁しょうにん
  • 大礼だいらい小礼しょうらい
  • 大信だいしん小信しょうしん
  • 大義だいぎ小義しょうぎ
  • 大智だいち小智しょうち

ちなみに蘇我氏はこの12段階には属せず、その更に上の特別なランクだったようです。

憲法十七条

憲法十七条けんぽうじゅうなななじょうが西暦604年に定められました。


ただ、憲法十七条は今の憲法とは違い、豪族に対する官僚の心構えのようなものだったようです。

  • 和を大事にして争ってはいけない。
  • 仏教を尊重しなさい。
  • 天皇の命令は絶対です。

などなど。

歴史書「天皇記てんのうき」や「国記こっき

また歴史書である天皇記てんのうき国記こっきも蘇我馬子と厩戸王によって編纂へんさんされました。

しかし、大化たいか改新かいしんがおこり、これらの歴史書は焼失してしまいます。

遣隋使けんずいし

厩戸王たちは、ずいの国に遣隋使けんずいしといわれる使者を送っています。

隋の正史である「隋書・倭国伝ずいしょ・わこくでん」には西暦600年に倭の使者が、隋に訪れたと書かれています。

おそらくこの時の使者が最初の遣隋使でしょう。

しかし、その後の日本書紀には西暦600年に使者が派遣されたことは書かれておらず、
この時の派遣は、もしかしたら上手くいかなかったのかもしれませんね。

その後、西暦607年に小野妹子おののいもこ遣隋使けんずいしとして派遣されます。

ご存じかもしれませんが小野妹子は男性です。

この時代は男性の名前に「子」を付けることは変ではなく、
女性に「子」をつけるようになったのはもっと後の時代からのようです。

小野妹子が持って行った国書には「日出るところの天子から、日没するところの天子へ」といった内容が書かれていたそうです。
これに対して、隋の皇帝である煬帝ようだいは「俺たちは落ち目の天子ってことですか?!無礼だろ!!」と怒りました。

しかし、当時の隋は高句麗と対立していたためヤマト政権と敵対するのは得策ではないと判断したようですね。

こうして隋は、ヤマト政権からの留学生を認めることになりました。

ヤマト政権としては隋と対等な関係を築くために、このような国書を届けたのではないか?と想定されますが、
隋と高句麗の関係を知った上での国書であったなら、すごい外交力ですよね。

翌年608年には、
再び小野妹子と後に活躍をしていく、
高向玄理たかむこのくろまろ僧旻そうみん南淵請安みなぶちのしょうあんを含めた留学生が隋に渡ります。

その後、西暦614年には、犬上御田鍬いぬがみのみたすきが遣隋使として派遣されます。

西暦618年には隋の国が滅びとうの国が建国されます。

厩戸王たちの死、時代の移り変わり

西暦622年には厩戸王が亡くなります。
626年には蘇我馬子が亡くなり、
628年には初の女性天皇だった推古天皇も亡くなりました。

推古天皇、そして二人三脚で内政から外交まで携わった厩戸王と蘇我馬子の時代は終わりを迎えます。

次の世代へと時代は動きます。

飛鳥文化

6世紀末~7世紀前半推古天皇すいこてんのうの時代の文化を飛鳥文化あすかぶんかといいます。

この時代、百済や高句麗などから仏教を中心にさまざまな文化が広がっていきました。

有名なものでは、厩戸王(聖徳太子)が創設されたといわれている、
四天王寺してんのうじ法隆寺ほうりゅうじなどの建物があります。

とても立派な建物で、ギリシアやインドなどの遠い文化の影響を受けた特徴がありますが、
今見ても立派です。

奈良に旅行に行った際はこれらの建物を観光したいですよね。

蘇我氏の滅亡と乙巳の変

推古天皇のあと34代・舒明天皇じょめいてんのうの時代では、蘇我馬子の子である蘇我蝦夷そがのえみしが権力を握ります。

7世紀中ごろになると、蘇我蝦夷そがのえみしとその子である蘇我入鹿そがのいるかが幅を利かせます。

舒明天皇じょめいてんのうが亡くなると、舒明天皇の皇后である35代皇極天皇こうぎょくてんのうが即位します。

2人目の女性の天皇です。

皇極天皇こうぎょくてんのうの即位で、
天皇候補であった厩戸王(聖徳太子)の子である山背大兄王やましろのおおえのおうと蘇我氏の仲が悪くなっていきます。

その後、蘇我入鹿そがのいるか西暦643年、山背大兄王を自害に追い込みます。

このままでは天皇家が危ないと感じた、皇極天皇の子である中大兄皇子なかのおおえのおうじが、中臣鎌足なかとみのかまたりと一緒に、
西暦645年7月10日、皇極天皇の前で蘇我入鹿を暗殺します。

このクーデターを乙巳いっしへんといいます。

翌日、蘇我蝦夷そがのえみしも自宅で自害します。

こうして蘇我氏は力を失っていきました。

栄光盛衰の飛鳥時代

本日は飛鳥時代を見ていきました。

大伴氏、物部氏、蘇我氏などの豪族が権力を持ち、やがて衰退していきました。

磐井の乱と外交をきっかけに、それまで力を持っていた大伴氏は力を失っていきました。

磐井の乱で力を発揮し、権力を持った物部氏はその後の崇仏論争により蘇我氏によって権力を失いました。

その後、蘇我氏も衰退していくことになります。

栄枯盛衰、時代の変化とともに権力者が代わっていくのは、今も昔も変わらないですよね。

時代は新しい世代へとバトンタッチされていきます。

参考資料: 
 詳説日本史B 改訂版 [日B309] 文部科学省検定済教科書