初心者が学ぶ日本史

1駅でまなぶ日本史 奈良時代①・藤原不比等の時代

1駅で日本史 奈良時代①

この記事は、日本史に興味を持っている社会人に向けて書いています。

「1駅を移動する間(約5分間)にざっくり日本史を楽しめる記事」を目指しています。

レベルは初心者向けの中学高校の日本史、
そして何処から見ても1話完結で見れる記事を目指しています!

本記事では「奈良時代・藤原不比等ふじわらのふひとの時代」を見ていきましょう。

平城京遷都、奈良時代開幕!

707年、43代・元明天皇即位

707年、42代・文武天皇もんむてんのうが25歳という若さで亡くなりました。
文武天皇の息子、首皇子おびとのおうじはまだ幼く、
文武天皇の母親である、43代・元明天皇げんめいてんのうが中継ぎとして即位しました。


政治は権力のある、中臣鎌足なかとみのかまたりの子、
藤原不比等ふじわらのふひとが行っていました。

708年、和同開珎

708年、当時の中国、唐の貨幣をまねて、
和同開珎わどうかいちんという貨幣が作られます。
しかし、まだこの頃は物々交換が主流であり、あまり流通することはなかったようです。

貨幣を流通させるため、
711年に「お金をたくさん貯めたひとの位を上げます。」といった政策が取られます。
これを蓄銭叙位令ちくせんじょいれいといいます。

しかし、今度は皆お金を使わずに貯めてしまって、
これまた流通しなかったようですね。

和同開珎から始まり、
その後平安時代中期まで12種類の貨幣が誕生します。
この12種類の貨幣のことを皇朝十二銭こうちょうじゅうにせんといいます。

その最初が和同開珎だったわけですね。

ちなみに、40代・天武天皇てんむてんのうの頃にも、
最初の貨幣である富本銭ふほんせんが発行されましたが、
こちらも流通しなかったようですね。

なかなかお金を流通させるのは難しいのですね…。

710年、奈良時代開幕! 平城京遷都

710年、
藤原京から、唐の長安にならって、平城京へいじょうきょうへと遷都が行われました。

藤原京ふじわらきょうは僅か15年程で平城京へと移行することになります。

その理由は、
立地が良くない説や、
藤原不比等と敵対する勢力から離れるためといった説や、
藤原京は宮が真ん中にあったのですが、
遣唐使によると長安の都では北方に宮があるなど、
長安と藤原京との間に違いがあり、
より長安に近づけるために移行されたなどの説があります。

いずれにせよ、
710年より平安京に遷都する74年の間を奈良時代ならじだいといいます。

そして、
その舞台はこの平城京へいじょうきょうになるのです。

712年、古事記完成

712年に古事記こじきが完成します。

時は戻り、
古事記とその後に完成する日本書紀にほんしょきは、
もとは40代・天武天皇によって編纂へんさんを開始されたといわれています。

6世紀頃に成立されたとされる史書である、
天皇(大王)の系譜が主な内容とされる帝紀ていきと、
神話や伝承的な内容とされる旧辞きゅうじが編纂の材料となったとされています。

40代・天武天皇に使えていた稗田阿礼ひえだのあれは記憶力が良く、
「帝紀」「旧辞」誦習しょうしゅう(書物を口に出して覚えること)」し、これを覚えました。
そして43代・元明天皇の命により、太安万侶おおのやすまろ稗田阿礼ひえだのあれからこの内容を聞いて、
書き写し「古事記」としてまとめ上げました。

古事記は以下の全3巻で成り立っています。

  • 神話からなる上つ巻かみつまき
  • 初代~十五代天皇までが書かれた中つ巻なかつまき
  • 十六代~三十三代天皇(推古天皇)までが書かれた下つ巻しもつまき

また、713年には郷土の名産や山川原野の由来などが書かれた風土記ふどきが編纂されています。

44代・元正天皇の時代と藤原不比等の死

715年、44代・元正天皇即位

715年、文武天皇もんむてんのうの姉であり、
元明天皇げんめいてんのうの娘である氷高皇女ひだかのおうじょが、44代・元正天皇げんしょうてんのうとして即位します。

718年、藤原不比等の養老律令

718年、藤原不比等により、養老律令ようろうりつりょうが制定されます。
養老律令は、701年に制定された大宝律令たいほうりつりょうとほとんど変わらないと言われています。

720年、日本書紀完成

720年、舎人親王とねりしんのう(天武天皇の子)が中心となり「日本書紀(にほんしょき)」が完成します。
日本書紀は歴代の天皇中心について書かれています。

720年、藤原不比等死去

720年、62歳で藤原不比等が死去します。
中臣鎌足(藤原鎌足)の子として生まれ、
律令国家に貢献していき飛鳥時代から奈良時代前半を駆け抜けていった人物でした。

藤原不比等は、
娘を文武天皇もんむてんのうやその後の聖武天皇しょうむてんのうなどに嫁がせたりして、
天皇家と血縁関係を結んでいきました。

このような政策を外戚政策がいせきせいさくとよびます。
より、藤原家の地位を確立していきます。

藤原不比等が死去したのち、
政治は皇族である長屋王ながやおうが主導していくことになります。

長屋王時代の土地政策と聖武天皇の誕生

人々の暮らし

律令政治の時代では、
農民の間に鉄製農具が普及し、
また、それまでの竪穴式住居たてあなしきじゅうきょにかわり、
掘立柱住居ほったてばしらじゅうきょが普及していきました。

また婚姻に関しては、男性が女性の家に通う妻問婚つまどいこんが主流でした。
夫婦は結婚しても別性のままで、
子どもの養育は母方の一族が行い、女性の発言力も強かったようです。

班田収授法はんでんしゅじゅほうにより、
六歳以上の農民に国から授けられた土地を口分田くぶんでんといいます。
農民は口分田を耕作して暮らしていきますが、
戸籍をもとに、重い税を負担し、生活は苦しかったと言われています。

税から逃れるため、自分の土地から逃げ出す農民や、
女性であれば税が少なくすみ、兵役もないため、
戸籍を偽る擬籍ぎせきも増えていたそうです。

百万町歩開墾計画と三位一身の法

律令制度により人口は増えますが、口分田が不足していき、
長屋王政権は開墾政策を行います。

722年
百万の田んぼを開墾するといったスローガンのような百万町歩開墾計画ひゃくまんちょうふかいこんけいかくをたて、
農民に食料や道具を支給して農地の開墾を促しますが、実施は不明で、成果は上がらなかったようです。

723年
既にある土地を再開発した場合は本人一代だけ保有を許可し、
新しい土地を開墾した場合は三世代にわたって保有を許可する
三世一身の法さんぜいっしんのほうを試行します。

しかし、三代後には土地を返す必要あるため、これでも効果は薄く、
その20年後、永久に一族の土地となる墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほうを発令することに繋がっていきます。

45代・聖武天皇の時代へ

724年、42代・文武天皇の子、
24歳となった聖武天皇しょうむてんのうが45代目の天皇として即位しました。

43代・元明天皇げんめいてんのうはおばあさん。
44代・元正天皇げんしょうてんのうはおばさん。

元明天皇と元正天皇は聖武天皇が大きく成長するまでの間をつなぐ形だったんですね。

そして、聖武天皇のお母さんの藤原宮子のお父さんは、藤原不比等

その後、聖武天皇の奥さんになる藤原光明子のお父さんも藤原不比等。
聖武天皇にとって、藤原不比等はお爺さんでもあり、お父さんでもあるのですね。
…複雑な関係ですが、聖武天皇と藤原家は強いつながりを持つことになります。

時代は聖武天皇の時代へと移っていきます。

参考資料: 
 詳説日本史B 改訂版 [日B309] 文部科学省検定済教科書 
 地図でスッと頭に入る古代史 著者:昭文社 出版 編集部