1駅で日本史 縄文時代
この記事は、
日本史に触れてこなかったけど、興味のある、社会人に向けて書いています。
「1駅を移動する間(約5分間)にざっくり日本史を楽しめる記事」を目指しています。
レベルは初心者向け、中学高校の日本史をテーマに扱います。
何処から見ても1話完結で見れるシリーズ記事を試みています。
今回は「縄文時代(じょうもんじだい)」について見ていきましょう!
土器に貝塚!ミステリアスなご先祖様の生活! 縄文時代
氷河期の終わり! 温かくなった日本列島
今から約1万年前になると、地球も暖かくなり、現在と同じような気候になりました。
それまで繁栄していたナウマンゾウなどの大型動物も絶滅していきました。
代わりに、ニホンシカやイノシシなどの小型で動きが速い動物が多くなっていきました。
また、植物も針葉樹林(しんようじゅりん)に代わり、
東日本では、落葉広葉樹林(らくようこうようじゅりん)が、
西日本では、照葉樹林(しょうようじゅりん)などが広がっていきました。
こうした環境の変化に対応する形で縄文文化が生まれていきます。
石器のバージョンアップ! 磨製石器の登場
石を打ち砕いて作る打製石器とは別に、
石を磨いて作る磨製石器が生まれました。
*縄文時代は磨製石器だけでなく打製石器も使われていました。
下記は磨製石器の使用例です。
- 石鏃(せきぞく)
弓矢やなどの矢じりに使用 - 石斧(せきふ)
武器ではなく、農工具として使用 - 石匙(せきひ)
動物の皮をはぐとき等に使用 - 石皿(いしざら)
料理を食べるのではなく、調理用に使用
木の実などをすりつぶしたりする
このように、磨製石器はさまざまな用途に使われました。
縄文土器の登場
縄文時代は、なぜ「縄文」と呼ばれているのでしょう?
それは「縄文土器(じょうもんどき)」に由来しています。
では縄文土器とはなんでしょう?
この時代の特徴である、縄目(なわめ)の文様がついている土器のことです。
この文様のことを縄文と呼び、縄文がついている土器を縄文土器と呼びます。
縄文土器は、粘土に縄文をつけます。
窯を利用せずに平らな地面等で焼かれるため、低温で時間をかけて焼いて作られます。
また、黒褐色(こっかしょく)、厚手のものが多いのが特徴です。
木の実の保存や、調理、また祭祀(さいし)などに使われていたようです。
縄文時代は約1万年と長い期間続くので、その年代ごとに下記の6期に区分されます。
- 草創期(そうそうき)
- 早期(そうき)
- 前期(ぜんき)
- 中期(ちゅうき)
- 後期(こうき)
- 晩期(ばんき)

草創期の土器はまだ縄文がついていないものもあり、
晩期に向かって多彩な縄文土器が存在していきます。
もう移動しなくてよい!縄文時代の住居
狩猟では、弓矢や落とし穴を利用して、小型動物などを捕まえました。
また、木の実などの採取、気温があがることで、海面が上昇し、
魚や貝も取ることが出来るようになっていきます。
丸木舟(まるきぶね)なども発見されており、航海も出来るようなっていました。
食後の貝殻などが集まっている貝塚(かいづか)や、
動物の骨などを利用した釣り針や、銛(もり)など骨角器(こっかくき)、
また、網なども見つかっていることから、漁法も発達していたようです。
貝塚で有名な物は、
アメリカ人の動物学者モースが1877年に大森貝塚(おおもりかいづか)を発見しています。
こうした環境の変化から、大型の動物を追いかけて各地を転々とする生活から、
生活は安定し、一か所に定住する生活が始まっていきました。
洞穴(どうけつ)や簡易テントではなく、
定住できる住居、竪穴住居(たてあなじゅうきょ)を住まいとするようなっていきました。
竪穴住居は、炉(ろ)という煮炊きが出来る場所があり、
地面を少し掘った住居に4~5人の家族などが暮らし、
20~30人ほどの集団で生活をしていたようです。
信仰の芽生え! アニミズム
この時代の人々は自然物や自然現象などに霊的な何かが宿っていると考えました。
こういった信仰をアニミズムと呼びます。
何となくその後の八百万の神々に繋がる形を想像してしまいますね。
また女性を模した土偶(どぐう)や、
殿方のアレを模した石棒(せきぼう)などが作られました。
こうしたものもアニマニズムに関わるものだと考えられています。

また歯を強制的に抜かれた頭蓋骨が見つかっている事から、
大人になる儀式として、抜歯が行われたと考えられています。
麻酔無しの抜歯は…
考えただけでも痛いですね。
自然崇拝していた形跡がいたるところで見られていたのですね。
またこの時代の墓地は共同墓地で、屈葬(くっそう)という形で埋葬されていたようです。
実はすごいぞ!縄文時代!
青森県の三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)
縄文時代はそこまで大きな建物はなく、
「小さな竪穴住居があるだけだ。」というイメージがないでしょうか?
青森県にある三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)では、
直径約1メートルの柱が6本見つかっており、大型建物の跡だと考えられています。
また、全長32m、幅10mの大型の竪穴住居も見つかっており、
500人を超える人々が定住していたのではないか?と言われています。
クリを栽培している跡も見つかっており、大きな集団生活を行っていたと推測されます。
この三内丸山遺跡は縄文時代中期のものと推測されています。
大型竪穴住居や6本柱に関しては復元物があるので、
三内丸山遺跡、訪れてみてはいかがでしょうか?

黒曜石(こくようせき)と交易
黒曜石(こくようせき)とは、火山から出来たガラスで、
石鏃(せきぞく)等に使われていました。
しかし、採れるところは限られており、
北海道 十勝岳(とかちだけ)
長野県 和田峠(わだとうげ)
熊本県 阿蘇山(あそざん)などでしか採取出来ませんでした。
しかし、他の地域でもこれらの黒曜石を利用しており、
交易が行われていたことがわかっています。
その他にも、ひすいやサヌカイト、アスファルトなどが交易されていたようです。
広いネットワークが出来ていたのですね。
縄文時代には稲作も行われていた?
縄文時代晩期には稲作が行われていたようです。
凄いですね。
福岡県の板付遺跡(いたづけいせき)、
佐賀県の菜畑遺跡(なばたけいせき)などからその痕跡が見つかっております。
稲作はに関しては、弥生時代になってからというより、
縄文時代の終盤からじょじょに行われてきたのでしょうね。
7世紀まで続いた?縄文文化
縄文時代は、その後稲作の伝来とともに弥生時代へと移り変わっていくのですが、
縄文文化は消滅していくのでしょうか?
日本本州では、稲作が伝わり弥生時代へと移り変わるのですが、
水田を作らず縄文文化を継承していった人々がいます。
それが北海道の人々です。
実は、北海道の人々は7世紀ごろまで縄文文化を継承していきました。
これを続縄文時代(ぞくじょうもんじだい)といいます。
その他にも沖縄では貝塚文化として、縄文文化を継承していくことになりました。
実は脈々と縄文文化は残っていくのですね。
縄文時代から次の時代へ
日本の歴史ですが、
旧石器時代(数~数十?万年)と 縄文時代(約1万年)で、残りは約2~3000年で終わりとなります。
…というくらい長い年月が縄文時代にあるのですよね(笑)

私は何となく旧石器時代との違いをあやふやに感じていました。
しかし、そこには、環境の変化により発展した、豊かな時代でもあったのですね。
また、この時代は戦争などもなく平和であったともいわれてますね。
その後の時代では現代に続くまで戦争が続いていくのですが、
1万年もの平和からどうして戦争が増えていったのでしょうか?
時代は弥生時代へと移り変わっていきます。
参考資料: 詳説日本史B 改訂版 [日B309] 文部科学省検定済教科書