初心者が学ぶ日本史

1駅でまなぶ日本史 奈良時代②・聖武天皇の時代

1駅で日本史 奈良時代②

この記事は、日本史に興味を持っている社会人に向けて書いています。

「1駅を移動する間(約5分間)にざっくり日本史を楽しめる記事」を目指しています。

レベルは初心者向けの中学高校の日本史、
そして何処から見ても1話完結で見れる記事を目指しています!

本記事では奈良時代ならじだい聖武天皇しょうむてんのうの時代」を見ていきましょう。

45代・聖武天皇の即位と長屋王

45代・聖武天皇の即位と長屋王

724年
42代・文武天皇の子、24歳となった聖武天皇しょうむてんのうが45代目の天皇として即位しました。

文武天皇は若くして崩御され、まだ若かった聖武天皇の中継ぎとして、
43代・元明天皇げんめいてんのう(聖武天皇のおばあさん)、
44代・元正天皇げんしょうてんのう(聖武天皇のおばさん)が天皇として活躍しましたが、
ついに聖武天皇が大人になり、天皇として即位します。

政治は皇族の長屋王ながやおうが主導権を持っており、
聖武天皇の即位とともに左大臣さだいじんになります。

長屋王政権下の政治

少し時代はさかのぼり、
44代元正天皇と長屋王政権では、
人口の増加に伴った2つの開墾かいこん計画を行います。

722年に、
百万の田んぼを開墾するといったスローガンのような百万町歩開墾計画ひゃくまんちょうふかいこんけいかくをたてます。
農民に食料や道具を支給して農地の開墾を促しますが、実施は不明で、あまり上手くいかなかったようです。

723年に、
既にある土地を再開発した場合は本人一代だけ保有を許可し、
新しい土地を開墾した場合は三世代にわたって保有を許可する
三世一身の法さんぜいっしんのほうを試行しますが、結局三代目以降は土地を国に渡す必要が出るため、
こちらも上手くいきませんでした。

また東北地方の蝦夷えみし対策として、今の宮城県に多賀城たがじょうに役所を立てます。

藤原四子と長屋王の変

藤原四子

聖武天皇がまだ子供の頃、日本の政治を動かしていたのが、
藤原不比等ふじはらのふひとです。
藤原不比等は天皇家ともつながりが深く、聖武天皇のお爺さんでもあります。

藤原不比等の死後、政治の中心は長屋王になりますが、
これに不満を持っていたのが、
藤原不比等の4人の子どもがいます。
武智麻呂むちまろ(南家なんけ)、房前ふささき北家ほっけ)、宇合うまかい式家しきけ)、麻呂まろ京家きょうけです。

長屋王の変

藤原不比等の娘の光明子こうみょうしと聖武天皇は既に結婚していましたが、
まだ皇后というポジションではありませんでした。
藤原四子は、光明子を聖武天皇の皇后にしようとしますが、
長屋王はこれに反対します。

聖武天皇と光明子の間に子(基王もといおう)が生まれますが、
病気のため1歳にも満たず夭逝ようせいします。

藤原四子はこの基王の死を「長屋王が呪い殺した」という密告を流し、
謀反の疑いをかけます。

729年「長屋王の変」です。

これにより長屋王は自殺に追い込まれます。

長屋王の変のあと、同年729年に光明子は皇后となります。

天然痘の流行と藤原四子の死

藤原四子が権力を握る時代かと思われましたが、
735年~737年にかけて致死率の高い天然痘てんねんとうが大流行します。
日本人口の25%~35%が亡くなったのではないかと言われています。

この天然痘により、
737年、何と藤原四子は全員死亡してしまいます。

橘諸兄の政治と藤原広嗣の乱

橘諸兄の政治

藤原四子の後に、
皇族にあたる橘諸兄たちばなのもろえが政治の中心で活躍していきます。

橘諸兄は遣唐使の経験があるエリートの吉備真備きびのまきび玄昉げんぼうを登用し、
唐の律令政治りつりょうせいじを目指していきます。

740年 藤原広嗣の乱

橘諸兄の政治により勢力が弱まったのが藤原氏です。
宇合の子、藤原広嗣ふじわらのひろつぐは738年に平城京へいじょうきょう(中央)から太宰府だざいふ(九州)に飛ばされ、
これを左遷と感じ、強い不満を持っていました。

特に遣唐使けんとうしである「吉備真備きびのまきび玄昉げんぼう」に強い不満を持ち、
740年、反乱を起こします。

藤原広嗣ふじわらのひろつぐの乱」です。


乱は2か月ほどで鎮圧され、藤原広嗣は死刑になりますが、
聖武天皇は乱の途中で、首都の平城京を出て突然旅に出てしまいます。
そして、
740年山背やませ恭仁京くにきょう
744年摂津せっつ難波京なにわきょう
744年近江おうみ紫香楽京しがらきのみや
745年に結局もとの平城京へと遷都していきます。

聖武天皇がなぜこのように遷都を繰り返したのか真相は不明ですが、
社会情勢が安定しなかったことが要因の一つではないのでしょうか。

仏教に頼った聖武天皇

鎮魂国家

長屋王の変、天然痘の大流行や飢饉、藤原広嗣の乱といった大きな反乱が相次ぎました。
聖武天皇は仏教の力によって国家の安定をはかろうとします。
このように仏教に頼る思想を鎮護国家ちんごこっかの思想」といいます。

741年国分寺建立こくぶんじこんりゅうみことのりを出します。
国分寺とは全国に建てる寺のことで、
全国に寺院と七重塔の建設が始まりました。

また743年には大きな大仏を作る大仏造立だいぶつぞうりゅうみことのりが出されます。
社会不安の危機を抑えて安定されるために、紫香楽京しがらきのみやにて出されました。
その後、東大寺大仏へと繋がっていき、
752年、聖武天皇の娘、46代孝謙天皇こうけんてんのうの時代に大仏は完成し、
開眼供養かいげんくようの儀式が行われることになります。

墾田永年私財法

ずっと問題になっていた土地不足に対応するため、
聖武天皇や橘諸兄は墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほうを発令します。

開墾した土地は税さえ納めれば、ずっとその人の土地になるという法案です。

全ての土地と人民は天皇のものという公地公民ではなくなってしまいますが、
積極的に開墾を行っていくことになり、
税収、また土地の開墾が進んでいきました。

しかし、一方で開墾しやすい土地を持っている人、そうでない人、
財力に余裕のある人、そうでない人の間に貧富の差が広がっていきます。

貴族や豪族、有力な寺院などは農民や土地のない浮浪人を雇い、
ますます土地を開墾し豊かになっていきます。
こうして出来た土地を初期荘園しょきしょうえんと呼びます。

…なんだか現代にも通じるものがありますね。

46代・孝謙天皇の時代へ

45代・聖武天皇は、
749年に自らの娘、阿倍内親王あべないしんのうに譲位し、46代・孝謙天皇こうけんてんのうが誕生します。
その後756年、55歳で45代・聖武天皇は崩御ほうぎょします。

若くして亡くなった文武天皇もんむてんのうの子として、
奈良時代の動乱を仏教の力で安定させようとしました。

そして、橘諸兄たちばなのもろえも757年、74歳で亡くなります。

時代は46代・孝謙天皇こうけんてんのうへと移り変わっていきます。

参考資料: 
 詳説日本史B 改訂版 [日B309] 文部科学省検定済教科書 
 地図でスッと頭に入る古代史 著者:昭文社 出版 編集部