1駅で日本史 奈良時代③
この記事は、日本史に興味を持っている社会人に向けて書いています。
「1駅を移動する間(約5分間)にざっくり日本史を楽しめる記事」を目指しています。
レベルは初心者向けの中学高校の日本史、
そして何処から見ても1話完結で見れる記事を目指しています!
本記事では「奈良時代・称徳天皇の時代」を見ていきましょう。
46代・孝謙天皇と藤原仲麻呂
46代・孝謙天皇誕生
西暦710年、唐の長安にならって、平城京へと遷都が行われました。
ここから「平安京」へと遷都が行われるまでの時代を「奈良時代」といいます。
43代・元明天皇と中臣鎌足の子である藤原不比等の律令制度を目指した政治から始まります。

天然痘や飢饉、そして反乱などを経験し、
仏教に平和の願いを込めた45代・聖武天皇の時代へと移っていきました。
聖武天皇は橘諸兄とともに政治を行っていきました。

そして、西暦749年、聖武天皇の娘であった阿倍内親王に譲位し、
46代・孝謙天皇となります。

この頃、藤原仲麻呂の存在感が強くなっていきます。
藤原仲麻呂は、藤原不比等の孫で、藤原武智麻呂の子になります。

聖武天皇の皇后である光明子こと、光明皇太后は藤原不比等の子でもあるため、
藤原氏の後ろ盾となっていました。
それまで聖武天皇を支えてきた橘諸兄の権力は衰えていき、
藤原仲麻呂が光明皇太后の後ろ盾を得て権力をつけていきます。
鑑真来日
752年、
45代・聖武天皇の時代より進めていた「大仏建立」が遂に完成し、
東大寺の大仏開眼供養が行われます。

また754年に、
仏教修行者の生活規律である戒律を日本に伝えるため、
唐の高名な僧侶「鑑真」が入京します。
唐から日本へ5度も渡航に失敗し、6度目に来日を果たします。
日本に戒律を広め、759年に唐招提寺を建築します。

橘奈良麻呂の乱
橘奈良麻呂の乱
藤原氏の勢力拡大に対して、
橘諸兄の息子、橘奈良麻呂は不満を頂いていきます。
そうして、757年「橘奈良麻呂の乱」が発生しますが失敗します。

こうして藤原仲麻呂の権力は益々大きくなっていきました。
藤原不比等たちによって成立した養老律令は不比等の死により停止しておりましたが、
藤原仲麻呂により757年に施行されます。
47代・淳仁天皇と藤原仲麻呂
光明皇太后が病気になり、
758年に、孝謙天皇は光明皇太后に仕えるため、譲位し孝謙上皇となります。
藤原仲麻呂の推挙で40代・天武天皇の孫、47代・淳仁天皇が誕生します。
淳仁天皇は藤原仲麻呂の推挙により天皇となったため、
藤原仲麻呂が権力を握っていき、
淳仁天皇は藤原仲麻呂に「恵美押勝」という名を与えます。

こうして藤原仲麻呂こと恵美押勝は権力を強め、
「太政大臣」まで出世します。
48代・称徳天皇と道鏡
恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱
760年、藤原仲麻呂こと恵美押勝の後ろ盾であった光明皇太后が崩御することになります。
761年、孝謙上皇も病にかかりますが、
この頃、孝謙上皇の看病をおこなった僧の「道鏡」を寵愛するようになります。

その後、道鏡を登用していく孝謙上皇に対し、
淳仁天皇は反対意見を述べていきます。
こうして、孝謙上皇と47代・淳仁天皇と恵美押勝の関係が悪化していきます。
764年に、
恵美押勝(藤原仲麻呂)が戦闘準備を始めたことを事前に察知した孝謙上皇により、
謀反の疑いをかけられ、戦闘が発生します。
「恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱」です。

しかし、恵美押勝は敗北します。
その後、淳仁天皇も廃され、淡路島に流刑となり亡くなります。
48代・称徳天皇
その後、孝謙上皇はもう一度天皇として即位することになります。
もう一度即位することを「重祚」といいます。
日本史上、この重祚は二度目となります。
一度目は、
飛鳥時代に、35代・皇極天皇が37代・斉明天皇として重祚しています。
*詳しく知りたい方は下記の記事をどうぞ。
こうして、孝謙上皇は48代・称徳天皇として重祚することなります。
また、 孝謙上皇を看病した「道鏡」も偉くなっていき、
765年「大政大臣禅師」とう道鏡のための新しい位を授かることになります。
翌年766年「法王」という称号を授かることになりますが、
これも道鏡のためだけに使われた新しい称号となります。
そして、それ以降使われることはない称号となります。
こうして道鏡の権力は強くなっていきます。

宇佐八幡神託事件
道鏡の弟や弟子も次々と出世していきます。
また、仏教と政治が時代なので、
道鏡は、造寺や造仏などを行う仏教政治を行っていきます。
769年、
宇佐八幡宮にて「道鏡を天皇にするのが良い!」という内容の神託を受け、
道鏡も天皇になることを求めます。
称徳天皇は神託を確かめるため、
尼である「和気広虫(法均)」に確認を依頼します。
しかし、法均は長旅に耐えられないため、
代わりに弟の「和気清麻呂」が勅使として、
宇佐八幡宮へと派遣されることになりました。

しかし、
神託の結果は「天皇は天皇家じゃないとダメです。」、
道鏡の天皇はNGという結果になりました。
裏では道鏡を天皇の座につけたくない勢力の力や、
道鏡の力もあったかと思われますが、
結果としては「天皇は天皇家からでお願いします」ということになりました。
称徳天皇は子供もおらず、
次期天皇として道鏡を推していたため、
この結果を不服として、和気清麻呂を左遷したのち、
「九州の大隅国」へと流罪となります。
また名前も和気清麻呂から別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させられ、
姉の和気広虫も別部狭虫(わけべのさむし)という名前に改名させられました。

これは称徳天皇が、言葉には言の葉が宿り、
大切な物であるという信仰を持っていたため、
このような罰を与えたと伝えられています。
こうして道鏡が天皇の座につくことは無かったのです。
この一連の事件のことを「宇佐八幡神託事件」といいます。
48代・称徳天皇の崩御と道鏡の失脚
宇佐八幡神託事件の翌年、称徳天皇は崩御し、
道鏡は後ろ盾がなくなります。
次期天皇は、
道鏡たちの反対勢力である藤原氏「藤原百川」や「藤原永手」の後押しで、
天智天皇(中大兄皇子)の孫である49代・光仁天皇が即位します。
奈良時代は天智天皇の弟、天武天皇の系統からなっていましたが、
この光仁天皇からは天智天皇の系統になります。
この頃、光仁天皇は即位時には既に62歳になっていました。

770年、道鏡は現在の栃木県、下野薬師寺へと左遷させられます。

平安時代へ
50代・桓武天皇の誕生と長岡京への遷都
光仁天皇は
藤原百川などの藤原氏ともに不安定になっていた律令制を再建し、
財政の手続きの簡略化や民の負担軽減などを行っていきました。
そして781年に、光仁天皇の子である山部親王に譲位し、
平安時代最初の天皇「50代・桓武天皇」が誕生します。
そして、光仁天皇は翌年782年に崩御します。

桓武天皇はその後、
784年に奈良時代の舞台であった「平城京」から「長岡京」へと遷都。
そして、
794年に「平安時代」の舞台となる「平安京」へと遷都していきます。
390年間も続く「平安時代」の幕開けとなります。
参考資料:
詳説日本史B 改訂版 [日B309] 文部科学省検定済教科書
地図でスッと頭に入る古代史 著者:昭文社 出版 編集部