初心者が学ぶ日本史

1駅でまなぶ日本史 弥生時代

1駅で日本史 弥生時代

この記事は、日本史に触れてこなかったけど興味を持っている社会人に向けて書いています。

「1駅を移動する間(約5分間)にざっくり日本史を楽しめる記事」を目指しています。

レベルは初心者向けの中学高校の日本史をテーマに扱います。

何処から見ても1話完結で見れる記事になっております。

それでは弥生時代やよいじだいについて見ていきましょう!

弥生時代の弥生(やよい)ってな~に?

弥生やよいってなんで弥生というのでしょう?

それは弥生土器やよいどきが発見された場所に由来しております。

1884年(明治17年)、東京の本郷弥生町ほんごうやよいちょう
現在の文京区弥生2丁目の向ヶ岡貝塚むこうがおかかいづかにて弥生土器が発見されました。

そう。
弥生時代は、土器発見の地名に由来していたのですね。

当初は弥生式時代やよいしきじだいと呼ばれてましたが、じょじょに弥生時代と呼ばれるようになりました。

弥生時代の始まりは諸説あるようですが、
縄文時代じょうもんじだいの後期からじょじょに移行していくイメージで、
紀元前10世紀~4,5世紀ごろからはじまり、西暦3世紀中ごろまで続きます。

縄文時代後期から緩やかに稲作が浸透していったイメージでしょうか。

弥生時代も長いので、早期・前期・中期・後期と分けることが出来ますが、
この記事では大雑把に、前期・後期で説明します。

弥生土器と縄文土器の違い

弥生土器やよいどき縄文土器じょうもんどきはどのような違いがあるか見てみましょう。

弥生土器の方が薄手で丈夫

縄文土器は、野焼のやきと呼ばれる、土の上でたき火のような所で焼く形でした。

弥生土器になると、野焼のやきだけなく、土やわらをかぶせて焼く方法に変わっていきました。
こうした変化により、赤みがかかった、丈夫かつ薄手うすでの土器が作られるようになりました。

シンプルな見た目と用途

縄文土器と比べて弥生土器はシンプルなデザインになりました。

下記のような用途に応じて、形状もさまざまなものがあります。

  • かめ
    煮炊にたきに使用
  • つぼ
    貯蔵ちょぞうに使用
  • 高坏たかつき
    食べ物などの盛り付けに使用

コメが食べれるゾ! 変わっていく弥生時代の生活

中国大陸では紀元前6500~500年頃より農耕のうこうがはじまりました。
縄文時代じょうもんじだいの終わりごろから徐々に日本にも農耕が伝わっていき、米作りが始まります。

日本人の主食しゅしょくの登場ですね。

それまでの、獲物を採ったり、木の実を採取する、食料採取しょくりょうさいしゅから、
コメなどの食料生産しょくりょうせいさんを行っていく形へと変わっていきます。

湿田による初期の水稲農耕

水稲農耕すいとうのうこうを行うには、水を含んだ土が必要になります。

水を含んだ土地となると、川が近く、日当たりの悪い湿地帯しっちたいになります。
こうした土地を湿田しつでんといいます。

いねの収穫には、石包丁いしぼうちょうが使われました。
しかし、一本一本稲を刈っていくため時間がかかりました。

このように初期の水稲農耕すいとうのうこうはけして生産性が高くはなかったのです。

乾田でパワーアップ!後期の水稲農耕

弥生時代も後期になると、農地に水を与えることの出来る灌漑施設かんがいしせつが作られるようになります。

灌漑施設を導入することで、灌漑かんがいで水を土地に注入、
排水はいすいすべきタイミングで排水を行うことが出来るようになりました。

こうして生産性の高い、安定した稲作が可能になります。
こうした土地を乾田かんでんといいます。

またこのころから鉄器てっきが入ってくるようになりました。

稲の収穫時にも、磨製石器ませいせっきの石包丁から鉄を用いた鉄鎌てつかまに代わり、
一気に稲を刈れるようになりました。

収穫した稲は柱の上に高く床を貼った、高床倉庫たかゆかそうこに貯蔵されました。

高床倉庫たかゆかそうこにはネズミから稲を守るため、
ネズミの侵入をふせぐ「ネズミ返し」などを用意するなどの工夫がなされておりました。

その他にも稲からもみがらを取る脱穀だっこくを行うために、木臼きうす竪杵たてぎねが使われるようになりました。

祭祀(さいし)に使う青銅器と実用性の鉄器

世界史の歴史では、まずはもろく壊れやすい青銅器せいどうきが作られて武器にも利用されておりました。

その後が発明されて、鉄の武器などが使われるようになりました。

しかし、日本では青銅器と鉄が同じようなタイミングで入って来ました。
もろく壊れやすい青銅器は祭祀さいしなどにフォーカスして利用され、
銅鐸どうたく銅鏡どうきょう銅剣どうけんなどが作られていきました。

に関しては、実用的な武器や農具に使われていきました。

戦争の始まり 弥生時代の集落

稲作により、人々の生産性は上がっていきました。

しかし、誰もがその生産性を等しく享受できるわけではありません。

生産性が上がるグループも出現すれば、生産性を上げられないグループも存在することでしょう。
一方では豊作で豊かな生活を享受でき、一方では不作で苦しい生活を行うこともあるでしょう。
貧富の差がうまれていきます。

そうなってくると、集落を襲い、蓄えている食料を奪うようになったり、
また、そういった攻撃をされないように土地を守るようなっていきます。

こうして、生産性が高まり豊かになっていくことで、戦争が起こるようになっていきました。
このような経緯から特徴のある集落が現れます。

まずは敵の攻撃を防ぐため、
周囲を深い堀や土塁どるいで囲った環濠集落かんごうしゅうらくが出現します。

有名な所では、
佐賀県の吉野ケ里遺跡よしのがりいせきや、
福岡県の板付遺跡いたづけいせきや、
奈良県の唐古・鍵遺跡からこ・かぎいせきなどがあります。

また周りの平野などを見渡せるような山の上や尾根に、高地性集落こうちせいしゅうらくが出現します。

土地の位置から農作業には向かないこと、武器のような石器が大量に出土しているため、
戦争から逃げるためなどの軍事的な集落という解釈などがあるようです。

有名な所では、香川県の紫雲出山遺跡しうでやまいせきがあります。

そして、このような状況から各地に「ク二」と呼ばれる小国が誕生していきます。

中国の歴史書に登場! 弥生時代の人々!

紀元前1世紀ごろのことが書かれている、漢書・地理志

かん(現在の中国)の歴史を書いた漢書・地理志かんじょ・ちりしでは、
と呼ばれていた当時の日本の様子が書かれています。

この漢書・地理志かんじょ・ちりしが、初めて日本のことを記載している書物になります。

倭の国には、まだ文字が存在していなかったのですが、
中国では既に文字を残す文化が存在していました。

こういった史料から、当時の様子を垣間見ることが出来ます。

文字とは、当時の様子を残す、貴重な発明だったのですね。

漢書・地理志かんじょ・ちりしによると、の国には百余りの小国があり、
現在のピョンヤンにあたる、楽浪郡らくろうぐんに定期的に使者を送っていたことが記述されています。

既に大陸と交流があったことが伺えます。

1~2世紀ごろのことが書かれている、後漢書・東夷伝

かんの歴史は長いです。

紀元前206年~紀元後200年と約400年も続きます。
また、前漢ぜんかん後漢ごかんに分けることができます。

後漢のことが書かれた後漢書・東夷伝ごかんしょ・とういでんに、再び倭が登場します。

西暦57年に、倭の中の、奴国なこくという国が使者を送り、
後漢の初代皇帝である「光武帝こうぶてい」より金印を授かったことが書かれています。

このときの金印と思わしきものが、
1784年(天明4年)に、福岡県の志賀島で発見されております。

その金印には「漢委奴国王かんのわのなのこくおう」の文字が記されています。
凄い発見ですよね。

また時代は変わり、西暦107年に、
倭国の王とされる帥升すいしょうという人物が、
生口せいこうと呼ばれる奴隷160人を安帝あんてい(後漢の皇帝)に献上していることが記述されています。

帥升すいしょう奴国なこくとの関係は不明です。

更に、桓帝かんてい霊帝れいていの二人の皇帝の時代(西暦150年頃)には、
倭国が大いに乱れ、戦乱の世の中だったことが記載されております。

「魏志倭人伝」三国志の時代と卑弥呼

中国大陸では、後漢が滅亡すると有名な三国志の時代に突入します。
魏・呉・蜀ぎ・ご・しょくの三国に分れてしまいます。

この中の魏の国のことが記載されている「魏志ぎし」の中の「倭人伝わじんでん」という史料の中に、
倭の国が再び登場します。

この「魏志ぎし」は三国が滅亡した後の晋の時代、陳寿ちんじゅによって編纂されたものになります。

魏志倭人伝によれば、
相変わらず大乱は続いていたようですが、邪馬台国やまたいこくという30余りの小国が連合国となり、
鬼道と呼ばれる呪術を利用していた女王、卑弥呼ひみこを立てて、ようやく大乱は終わったようです。

卑弥呼は西暦239年に魏の国に使者を送り
倭の国の王の意味である「親魏倭王しんぎわおう」の称号を与えてもらい、
金印と銅鏡を授かったと書かれております。

また邪馬台国やまたいこく狗奴国くなこくという国と争っていたことや、
卑弥呼の死後、壱与いよという女性の後継者がいたことも記載されております。

魏志倭人伝には、倭の国の風習なども書かれております。

身分の高い上流階級は大人だいじん
身分の低い人は下戸げこと記されており、身分制度が既に存在していたことが分かります。
*下戸はお酒とは関係がなく、身分が低いという意味ですね。

刑罰や市に関する記載や、
鹿の骨を焼いて、そのひびで占いをする太占の法ふとまにのほうなど、さまざまな風習の記載が見られます。

邪馬台国やまたいこくへの行き方も書かれているのですが、
場所は現在も分かっておらず、近畿説や九州説などがあります。

魏の皇帝から授かった金印は見つかっておらず、
もし見つかることがあれば、
邪馬台国の場所の決めてになるかもしれません。

その後壱与いよが、
西暦266年にが滅亡したあとのしんの国に、使者を送っていることが記載されてます。

しかし、これが魏志倭人伝ぎしわじんでんにおける、の国に関する最後の記述となり、
その後約150年間、の国に関する史料はない空白の期間が続きます。

生産性と争い 弥生時代から学ぶべき教訓

弥生時代といえば、まずは水稲農耕すいとうのうこうが浸透していったことがあげられます。

しかし、それはある日突然変わっていったのではなく、
縄文時代後期から、縄文時代の息吹を残しつつ、緩やかに変化していったのでしょう。

水稲農耕すいとうのうこうが浸透し、食料の生産性は上がり、安定した豊かな生活を手に入れました。
しかし、同時にそれは、格差を生むことになり、戦争時代への幕開けだったのかもしれません。

私達もこの弥生時代から学ぶべきことは多いように思えます。

こののち、中国の史料にも記載がないことから、
倭の国は空白の150年へと進んでいきます。

時代は、古墳時代こふんじだい、ヤマト政権へと繋がっていきます。

参考資料: 
 詳説日本史B 改訂版 [日B309] 文部科学省検定済教科書