初心者が学ぶ日本史

1駅でまなぶ日本史 平安時代④ 宇多天皇から村上天皇の時代

平安時代の中でも藤原氏が活躍した時代を紹介します。

宇多天皇うだてんのう菅原道真すがわらみちざね
また平安時代に起こった武士団の大きな反乱を中心に見ていきます。

宇多天皇と菅原道真

藤原北家が力をつけていた時代、宇多天皇うだてんのう藤原基経ふじわらもとつねの政治ボイコットが発生した
阿衡あこう紛議ふんぎなどの事件により、藤原氏を遠ざけようとします。

891年、藤原基経は死去します。
その後、優秀な学者であった菅原道真を信頼し、蔵人頭くろうどのとうに採用します。

学問の神さまとして現代でも有名ですよね。

またこの頃、治安維持のため、宮中を警備する滝口たきぐちの武士」が置かれます。

その後菅原道真は遣唐使に任命されますが、
当時の唐の国は滅亡寸前のため、道真は「遣唐使の廃止」を提案。
894年、遣唐使は中止されます。

その後907年、実際に唐の国は滅亡することになります。

897年、宇多天皇は60代・醍醐天皇だいごてんのうに譲位し、醍醐天皇の時代へ移ります。

醍醐天皇と菅原道真

昌泰の変

醍醐天皇の時代、藤原北家で力を持っていたのは、
藤原基経の子、藤原時平ふじわらのときひらでした。

時平は若くして左大臣へとスピード出世しますが、
菅原道真も負けておらず右大臣になります。

左大臣の方が位としては上ですが、時平はまだ若く、
年齢も経験も上であった菅原道真は邪魔な存在でした。

また、宇多上皇は上皇になったとはいえ、まだまだ力をもっておりました。
菅原道真は宇多上皇からの信頼が厚かったので、菅原道真を尊重するように求めます。
そうなると、醍醐天皇も面白くありません。

そんなさなか、宇多上皇が出家してしまいます。

901年、藤原時平は
「醍醐天皇の弟、斉世親王ときよしんのうを即位させようとしている」といった罪を道真にかぶせます。
これを昌泰しょうたいの変」といいます。

これにより菅原道真は太宰府だざいふへと左遷させられます。
道真は厳しい生活を余儀なくされ、
太宰府へと左遷させらて数年後の903年に亡くなってしまいます。

その後、909年に藤原時平は病死、
その後も不幸が続く事から道真の祟りと恐れられました。

醍醐天皇は923年に菅原道真を右大臣に復位させ、
慰霊しますが、
930年に平安京にある天皇の私有地「清涼殿せいりょうでん」に落雷。
死者がでてしまいます。

更にその3か月後、体調を崩した醍醐天皇も崩御してしまいます。

醍醐天皇の時代

醍醐天皇も宇多天皇と同じく摂政や関白を置かない政治を行いました。
このように天皇家中心で政治を行おうとした醍醐天皇の政治を延喜えんぎの治」といいます。

また荘園をキチンと整理しようとした「延喜の荘園整理令しょうえんせいりれいや、
律令を補完する法令集である延喜格式えんぎきゃくしきの作成、
日本書紀をはじめとする正史六国史りっこくしの中で最後のものとなる
日本三大実録にほんさんだいじつろくを編纂します。

また古今和歌集こきんわかしゅうが作られたのもこの時代です。

朱雀天皇と「承平・天慶の乱」

醍醐天皇だいごてんのうのあと、61代・朱雀天皇すざくてんのうが8歳で即位します。
朱雀天皇の時代には、藤原時平ときひらの弟の藤原忠平ふじわらただひらが摂政を行います。

この頃、律令体制が成り立たなくなっていました。
地方は税さえ納めれば良いといった形になっており、
地方の政治は自分たちで行うような状態でした。

そんな中、地方の豪族たちが力を持っていき、
武力をもった武士が生まれていきます。

そういった武士団の力が強くなっていった時代でもあります。

朝廷から派遣されている国司に歯向かう武士団も出てきていました。

そうして朱雀天皇の時代、このような武士団の大きな反乱が発生します。

平将門の乱

桓武天皇の血筋である平氏は桓武平氏かんむへいしと言われます。

そんな桓武平氏のなかから、
関東の下総しもうさを本拠地としていた平将門たいらのまさかどは一族との争いを繰り返していました。
935年、将門の叔父「平国香たいらのくにか」を殺害、やがて国司こくしとも敵対します。

平将門は自らを親皇しんのうと名乗り、939年に反乱を起こします。
しかし、平国香の子平貞盛たいらのさだもり藤原秀郷ふじわらのひでさとによって鎮圧されることになります。

藤原純友の乱

同じころ、伊予いよの国の国司であった藤原純友ふじわらすみともも瀬戸内海で反乱を起こします。

純友は海賊団を率いて太宰府だざいふに火を放ったり、
瀬戸内海を中心として反乱を起こします。

源経基みなもとのつねもと小野好古おののよしふるなどにより鎮圧されます。

平将門の乱と藤原純友の乱を承平じょうへい天慶てんぎょうの乱」といいます。

天暦の治

朱雀天皇ののち、62代・村上天皇むらかみてんのうが即位します。
(村上天皇の絵)

村上天皇は醍醐天皇と同じく藤原氏による摂関せっかんをおかず、
天皇中心の政治を行います。

これを天暦てんりゃくの治といいます。

醍醐天皇の延喜えんぎの治と合わせて、延喜えんぎ天暦てんりゃくと呼びます。

村上天皇は和同開珎わどうかいちんからはじまる、本朝十二銭ほんちょうじゅうにせんの最後乾元大宝けんげんたいほうを発行します。

しかし、村上天皇の子である63代・冷泉天皇れいぜいてんのうから
再び藤原北家の「摂関政治」が始まっていくことになります。

参考資料:   
詳説日本史B 改訂版 [日B309] 文部科学省検定済教科書
地図でスッと頭に入る古代史 著者:昭文社 出版 編集部
一度読んだら絶対に忘れない日本史の教科書 [ 山崎 圭一 ]