初心者が学ぶ日本史

1駅でまなぶ日本史 平安時代③ 藤原北家の他氏排斥

平安時代は400年近くも続きます。
本記事はその中でも9世紀、藤原北家が栄えた時代を中心に見ていきます。

藤原北家と他氏排斥

飛鳥時代・中臣鎌足こと藤原鎌足から続く藤原氏は
4つの家柄(南家、北家、式家、京家)に分類されていました。

4つの家柄に関して学習されたい方は下記の記事を見てください!

第52代・嵯峨天皇と第51代・平城上皇の対立である、
「 平城太上天皇の変(薬子の変) 」の後、藤原北家が力をつけていくことになります。

平城太上天皇の変については下記を見てください!

藤原氏は他氏排斥たしはいせきという身内以外のライバルを排除していく運動を
起こしていきます。

藤原良房の時代

承和の変

823年、嵯峨天皇が兄弟である53代・淳和天皇じゅんなてんのうが即位します。

淳和天皇は、後ろ盾のない自分の子である皇子たちを
権力争いに巻き込みたくなかったともいわれています。

そして、淳和天皇の第1皇子である「恒世親王つねよしんのう」が病死し、
833年、今度は嵯峨さが天皇の子である54代・任明天皇にんみょうてんのうに譲位します。

しかし、任明天皇は、淳和天皇の第2皇子である恒貞親王つねさだしんのうを皇太子に擁立します。

上皇となった淳和上皇は、恒貞親王を心配しながら崩御します。

任明天皇の時代に出世したのが藤原北家の藤原良房ふじわらのよしふさです。

任明天皇の時代、
淳和天皇の第二皇子である恒貞親王を支持していたのが、
伴健岑とものこわみね橘逸勢たちばなのはやなりです。

恒貞親王は藤原良房と血縁関係はなく、
恒貞親王を支持していた伴健岑と橘逸勢は、藤原良房にとって邪魔な存在でした。

そんなさなか、伴健岑と橘逸勢が、
恒貞親王の身の危険を危惧し東国へと移す計画をたてますが、
藤原良房の耳に入り謀反が発覚します。

伴健岑と橘逸勢は島流し、恒貞親王も皇太子の座をはく奪されてしまいます。

そうして、次の皇太子として選ばれたのが、任明天皇の子、道康親王みちやすしんのうです。

道康親王の母親である藤原順子は藤原良房の兄弟であり、
その後、850年、道康親王は「55代・文徳天皇もんとくてんのうとして即位します。

藤原良房は更に出世し、857年、最も権力の強い「太政大臣だいじょうだいじん」という役職につきます。

こうして、藤原北家に邪魔な人物を排除していく他氏排斥たしはいせきが始まっていきます。

外戚とは

藤原良房の娘「明子」と文徳天皇の間に後の清和天皇せいわてんのうとなる皇子がうまれます。

文徳天皇は若くして、858年に崩御してしまいます。

文徳天皇には3人の兄がおりましたが、
藤原良房の圧力により、それらの兄をしりぞき、
文徳天皇の第4皇子が僅か9歳で56代・清和天皇せいわてんのうとなります。

9歳の清和天皇は政治を行うことは出来ません。

藤原良房が代行して政治を行っていきます。

このように皇子をたてて、その外祖父が政治をコントロールすることを、
外戚がいせきといいます。

また、幼い天皇など、天皇の代わりに政治を行う役職を摂政せっしょうといいますが、
藤原良房が実質摂政を行っていましたが、
まだ正式には「摂政」という役職についてはいませんでした。

応天門の変

866年、平安京の応天門おうてんもんが放火されるという事件が起こります。

大納言・伴善男とものよしおの密告により左大臣・源信みなもとのまことに嫌疑がかけられますが、
藤原良房から証拠不十分で無実の罪となります。

しかし、今度は密告により伴善男らが犯人とされ、島流しとなります。

伴善男ら有力者を排斥した結果、藤原良房が正式に「摂政」となります。

藤原基経の時代

藤原良房は養子の藤原基経ふじわらのもとつねに自分の跡を継がせます。

藤原良房は872年に亡くなりますが、北家の力は益々強固になっていきます。

宇多天皇即位までの流れ

876年、清和天皇は「57代・陽成天皇ようぜいてんのうに譲位します。
この時陽成天皇は9歳、藤原基経が摂政として政治の実権を握ります。

しかし、陽成天皇と基経は不仲となり、
884年、「58代・光孝天皇こうこうてんのうへと譲位します。

光孝天皇は政治のすべてを基経に任せます。
しかし、高齢(といっても55歳)だった光孝天皇は崩御し、
887年、光孝天皇の息子であった「59代・宇多天皇うだてんのうが即位します。

阿衡の紛議

基経は既に「太政大臣」という最高の役職をもっていたのですが、

宇多天皇のもとで藤原基経に「政治は全て任せる」ことを伝えようと詔を、
橘広相たちばなのひろみに起案してもらいます。

一度目は慣例にのっとって基経は辞退します。

二度目の詔を出した際に事件が発生します。
それは「阿衡あこうに任命する」という旨が書かれていた為でした。

阿衡というのは中国では、位は高くても、職務を持たないといった意味であり、
これに藤原基経は怒ります。

「職務は持たないから仕事しない。」と政治をボイコットしてしまいます。

この事件を阿衡の紛議あこうのふんぎといいます。



基経は橘広相の島流しを求めますが、
菅原道真すがわらのみちざねによって島流しは回避されました。

最終的には、何とか政治に戻ってきてくれます。

このように藤原基経の力を見せつけた形となりましたが、
宇多天皇は嫌気がさしてしまいます。

891年、藤原基経は亡くなり、
宇多天皇は、藤原家ではなく菅原道真すがわらのみちざねを頼るようになっていきます。

参考資料:   
詳説日本史B 改訂版 [日B309] 文部科学省検定済教科書
地図でスッと頭に入る古代史 著者:昭文社 出版 編集部
一度読んだら絶対に忘れない日本史の教科書 [ 山崎 圭一 ]